西武台野球部 監督 交代 5

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リーグ一番乗りで10勝に到達するなど開幕ダッシュに成功したものの[34]、5月9日ロッテに連敗したことで4月10日から守り続けた首位を明け渡し[35]、交流戦開始後の同月22日には東北楽天ゴールデンイーグルスに抜かれ3位に転落[36]、6月8日には交流戦で優勝した福岡ソフトバンクホークスにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり[37]、6月29日には最大9あった貯金が一旦無くなった[38]。7月28日には再び2位浮上するが[39]、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落[40]、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが[41]、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位に浮上[42]、10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利したことで年間3位以上を確定し、4年連続でクライマックスシリーズに進出が決定した[43]。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し8連勝で2位浮上、本拠地でのCSファーストステージ開催権を獲得した[44]が、CSファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し[45]、ファーストステージ終了翌日の10月15日、渡辺監督が球団に監督を辞任することを申し入れ、了承されたことを発表[46]、渡辺監督は球団シニアディレクターに就任することとなった[47]。10月22日、渡辺監督の後任には2002年から2年間西武の監督を務めた伊原の就任が発表された[48]。FAで、片岡治大が巨人に、涌井秀章がロッテに移籍した。, 開幕から3連敗スタートで、打線のテコ入れとして5月よりエルネスト・メヒアを獲得したが、5月25日には両リーグ最速の30敗に到達するなどチームは最下位に低迷した。6月3日に成績不振と右ひざ痛悪化の為、伊原監督は自ら休養を申し入れ、球団はこれを了承し翌6月4日のシーズン53試合目の対DeNA戦後に、伊原監督の休養と監督代行に打撃コーチの田辺徳雄の就任を発表した[49]。また、袴田英利チーフ兼バッテリーコーチをヘッド兼バッテリーコーチに、高木浩之二軍野手総合兼打撃コーチを一軍打撃コーチ、嶋重宣二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐を二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチとすることを発表した。 埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。, 埼玉県をフランチャイズとし、同県所沢市にあるメットライフドームを本拠地[2]、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場を準本拠地としている。また、二軍[注 1](イースタン・リーグ所属)の本拠地はドームと同じ敷地内にある西武第二球場である。, 西日本鉄道(西鉄)は、1943年にそれまでの大洋軍[注 2]を譲り受け、西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散している[注 3]。, 戦後すぐの1946年6月には西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に日本野球連盟から復帰申請を却下されている。, ところが、1949年暮れにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[3]、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers )を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。, 1月下旬に運営会社西鉄野球株式会社を設立登記した[注 4]。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。, 選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守、深見安博、河野昭修、塚本悦郎ら、八幡製鐵の鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツの川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。, シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。, 同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって、人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、また西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できずに、収益を興行師に持ち逃げされることもあり経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している[注 5]。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが、元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎要が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。, 1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions )となる(球団名変更は3月1日)[注 6]。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる[4]。, シーズン途中に、契約が難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘を深見安博、緒方俊明とのトレードで獲得。このシーズンは、首位の南海と8.5ゲーム差の3位。, Bクラスの4位に終わるも、中西太がホームラン王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。, 西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗[注 7]とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日の阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。, 前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。, 4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7.5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。, この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成[9]。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。, 南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。7月22日からの大阪球場での南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11.5ゲーム差をつけられた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。, 稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。, 中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原は監督を辞任し、大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎が就任。, この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。, 稲尾が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた[12]。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝[注 8]を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが[12]、チームは2年連続3位に終わり、川崎が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。, 前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾和久の復調など投手陣がふんばり、3年連続の3位となる。共に故障を抱えながら欠場した中西太と出場した豊田泰光との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。, 序盤から独走状態だった南海に6月には最大14.5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として、9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男と安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れる。, 序盤首位にたつことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾和久が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫がノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの、5年ぶりのBクラスとなる5位に終わる。, 8年ぶりに開幕戦に敗れ、序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの、前年未勝利の稲尾和久が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ、3位となる。, 5月12日の南海戦(大阪)で球団史上初の完全試合を達成した田中勉が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾和久など安定した投手陣に比べ、打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れて2位に終わる。, 開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗がつづき8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永正明ら投手陣の活躍で2位となる。これが西鉄最後のAクラス入りとなった。, 開幕から4連敗。6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位となる。池永正明が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。, 5月に9連敗で中西太が一時監督休養。9月には4位まで上がるものの、最終的には5位でシーズン終了。10月、永易将之が八百長行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「黒い霧事件」の発端となった。稲尾和久が現役引退し監督に就任。, 開幕直前、前年追放された永易将之が池永正明ら西鉄の6選手[注 9]が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永正明が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分[注 10][注 11]が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細は「黒い霧事件 (日本プロ野球)」参照)。投手では東尾修、三輪悟、打者では東田正義、竹之内雅史(トンタケコンビ)ら若手を起用。東尾は防御率5点台ながら11勝を挙げるが、チームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となる。, 巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾と河原明が共に16敗でリーグ最多敗になるなど、一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒットノーランをたてつづけに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わる。, 東尾が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ新人王を獲得するが2年連続全球団負け越し。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位。観客動員数も激減するなど経営が悪化、ついに西鉄は球団経営を手放すことになった[15]。, 11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、一種の命名権契約で球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions )となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。, この年からパリーグは前後期制度となる。開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げ前期は4位。後期も序盤は好調だったが5位に終わり通年4位。この年から翌年にかけてロッテ監督・金田正一との遺恨対決が話題となった。オフにはメジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードを獲得する[注 12], 期待されたフランク・ハワードは開幕戦に出場しただけで離脱、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感がなく、前期3位、後期4位、通年では4位に終わる。シーズン終了後、稲尾は監督を解任される[17]。後任には大洋から江藤愼一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得。, 54人中17人が新戦力となり、新監督・江藤による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井正博、白仁天らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの、後期は打線に疲れが出て4位。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井は本塁打王、白が首位打者、東尾修が最多勝を獲得した。オフ、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘、江藤は選手兼打撃コーチという実質的な「降格」発表に江藤が反発、退団してロッテに移籍[18]。, 新監督に就任したレオ・ドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし契約を解除。ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し監督に就任。戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターとなり、球団名が改まることが決定した。, シーズンからクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions に変更。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため省略。同年10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。, 投手陣は大洋から移籍の山下律夫がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の古賀正明がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、ボブ・ハンセンの.269がチーム規定打席到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では法政大学の江川卓を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には根本陸夫が監督に就任した。, 真弓明信、立花義家など若手が台頭しレギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることなく5位。通年では2年連続の最下位は免れ5位。オフ、球団は西武鉄道グループの国土計画に買収されることになる。, レギュラーシーズン終了後の10月12日、廣済堂クラウン[注 13]がライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表[19]。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズ(Seibu Lions )となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。, 10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテから野村克也と山崎裕之、阪神から田淵幸一を獲得。クラウン時代の77年ドラフトで指名し交渉権を得た江川卓入団にも執念を燃やしたが失敗、これにより読売グループとの関係が悪化した(江川事件)。, 西武ライオンズとして最初のシーズンは、春季キャンプでの調整失敗[注 14]もあり前期は開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や「がんばれライオンズ」(TBSで関東一円で放送)等のミニ番組を放送してPRに努めた結果観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。なお西武はこの年以降、一度も最下位になっていない。, 前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。, 前期は終盤まで優勝を争うもロッテに敗れ2位に終わる。だが後期は失速して5位に沈み、通算では4位。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任した。, この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。, 序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続日本一を達成。, 田淵や山崎など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷し、3位に終わった。このシーズン終了後、田淵と山崎が現役を引退した。, 中日ドラゴンズの田尾安志をトレードで獲得、5年目の秋山幸二がホームラン王を争い投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、バッテリーコーチ(ヘッド格)を務めた森昌彦が就任した。この年のドラフトで、甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末[注 15]、交渉権を獲得している。, この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙、田辺徳雄、バークレオ、安部理など)がそろい、特に渡辺久信(最多勝利1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「西武黄金時代」[20]を築いた。, ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。, 8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。, 序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一。シーズンオフにこの年15勝をあげた東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。, 開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると工藤、渡辺、郭泰源、松沼博久ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のバークレオが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダーの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。日本シリーズでは4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。, 序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤よりオレステス・デストラーデが加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。, 3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、日本シリーズでは巨人を4連勝で破り2年ぶりの日本一を達成した[注 16]。, 開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し2年連続のリーグ優勝を飾る。日本シリーズでは山本浩二監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。, 6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一に輝いた[注 17]。, デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、福岡ダイエーホークスと秋山幸二、渡辺智男、内山智之と佐々木誠、橋本武広、村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原がエースコックのスーパーカップのCMに起用された。, オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。, 東尾修が監督に就任しデストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し戦力が低下、残った主力もベテランが増え成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、イチローを擁する首位オリックスの独走を許す。またロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり連続優勝も途絶えた。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため退団しヤクルトへ移籍した。, 序盤から低迷しBクラスをさまよっていたが、2年目の西口文也が最多勝のキップ・グロス(日本ハム)より1勝少ない16勝をあげ活躍。6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。不動の4番として活躍した清原がシーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。, 松井稼頭央・大友進・髙木大成・石井貴・豊田清といった若手の台頭もあり2連覇中のオリックスを突き放し、マジック1で迎えた試合では鈴木健のサヨナラホームランで3年ぶりにリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一を逃した。, 西武球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称。チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制しリーグ2連覇を達成する[注 18]。日本シリーズでは、横浜ベイスターズと対戦し下馬評は西武有利と予想されたが[21]、2勝4敗で敗れた。ドラフトでは、この年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目で指名し日本ハム、横浜との競合の末、抽選で松坂の交渉権を獲得している。, 西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝をあげ、新人王に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。, 前年に続きダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。しかしオリックスには6年ぶりに勝ち越した。同年秋のドラフトで系列企業のプリンスホテル硬式野球部から, の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い救済措置・特例でプロ入り。, 松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の許銘傑が11勝をあげ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾監督が勇退し、シーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督に昇格、伊東は総合コーチ兼捕手に昇格となった。, 開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16.5ゲーム差をつける大差でリーグ優勝を果たす[22]。しかし日本シリーズは巨人に4連敗を喫した[23]。個人記録では10月2日にアレックス・カブレラが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した[24]。, この年の西武の開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく札幌ドームで行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。, 西武は札幌ドームを翌2003年から準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが2004年から北海道に移転することにより札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局2003年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない[注 19]。, 日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては、日本ハムの札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合の後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた[注 20]。, ダイエーと優勝を争ったが投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。同年シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。, 伊東勤が、総合コーチから監督に昇格。松井のメジャー移籍。開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの投打に渡り全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも2死2、3塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王の松中信彦を迎え撃つ(ただし松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。ここでランナーが帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日と対戦し先に王手をかけられるものの、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。, シーズンから二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは総合3位、プレーオフでロッテに敗れた。シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、当時西武グループ経営改革委員会委員長を務めていた諸井虔が売却に反対して計画が立ち消えとなり、2006年以降も球団を保有することとなった。2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。, この年のオフには、リリーフの中心として活躍した抑えの豊田清がFA宣言して巨人に移籍、中継ぎの森慎二がポスティングシステムでメジャーリーグのタンパベイ・デビルレイズに移籍した。, 日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるがわずか1ゲーム差で2位に終わった。プレーオフでは第1ステージで福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。オフに、エースの松坂大輔がボストンレッドソックスに移籍し、同年12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣・介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現:テクノプロ・ホールディングス)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、同月4日の実行委員会で正式に承認され2007年1月1日から改称した。, 1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、上田埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが、「武蔵国の西部」として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。, チームは交流戦で10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2.5ゲーム差の5位に終わった。シーズン最終戦の直前、伊東は不振の責任を取り辞意を表明し、シーズン終了と同時に監督を退任した。, 11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし地域密着を図った。, この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて、子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により命名権取得契約を解除することが決定された。2008年1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、1月9日より、本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍同様「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。, 1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージで対戦。4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたもののその後連勝し、4勝3敗で4年ぶりの日本一を達成する。アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズ戦をサヨナラ勝ちで初優勝を達成した。彩の国功労賞を受賞。, 1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている[25]。昨シーズンの守護神であったアレックス・グラマンの故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなった。ドラフト会議で花巻東高校の菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。, 前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返した。だが終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった。クライマックスシリーズはファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。ドラフトでは1位希望の早稲田大学の大石達也を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。, 東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった[注 21][注 22]。セパ交流戦の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし9月は19勝5敗2分の成績で[26]、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため勝率を5糸(0.5毛)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた[27]。クライマックスシリーズではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。オフにはFA移籍で帆足和幸がソフトバンクに、許銘傑がオリックスにそれぞれ移籍した。, 5月1日には2007年に死去した稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表[28]、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した[29]。

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